平安時代から続く畳の歴史は古く、その畳を作る職人の名称、呼び方は現代にいたるまでに様々あったそうです。今では考えられませんが昔は官位まで授かっていたそうです。

畳は平安時代にはすでに存在しており、鎌倉時代の武士の邸宅では

当初は板敷きがメインの生活だったにも関わらず、広い部屋の人が座る

場所には畳をつなげて部屋を囲うように敷いていたそうです。

やがて室町時代には部屋全体に敷き詰められるようになり、

江戸時代には畳を敷き詰めることが庶民の住居にも広がった…。

庶民の暮らしに畳が広がっていく過程を簡単に説明するとこんな感じです。

平安時代から続く長い歴史のある畳ですが、平安時代の畳(置き畳)は

使う人の身分や地位によって厳格にサイズが規定されていたといわれており、

当然その畳を作る職人が平安時代には存在していたことになります。

今では畳店と言えば○○畳店や○○製畳といった店名が多く、

畳屋さん、畳職人といったように世間一般では呼ばれています。

でも昔々その昔は畳を作る職人にも色々な呼び名があったそうです。

今回はそんな平安時代から続く畳職人の歴史や

畳屋さんの呼び名について書いてみようと思います。

畳屋には官位が授けられていた!?

先にも書きましたが、畳は平安時代では身分を象徴する特権階級の人しか使用できない

それは高価な座具だったそうです。

そんな高価な畳ですから、だれでも作れるといったわけではなく、

それを作る職人にもある程度の身分が与えられ、官位まで授けられていたそうです。

室町時代から安土桃山時代にかけて床全体に畳が敷き詰められるようになり、

徐々に畳が普及してくると今度は畳職人の数が急激に増えてきて、

江戸時代の城下町には職人町や畳屋町といった町が出現しました。

宮原畳店のある静岡も、徳川家康が大御所となり駿府城の築城、

久能山東照宮や浅間神社の造営のために、全国から優秀な職人が集められたことで

伝統工芸が発展したと言われています。

様々な名称で呼ばれていた畳職人

江戸時代では畳職人のことを「畳刺」(たたみさし)と呼び、その家のことを

「畳屋」と呼んでいたそうです。

昔から様々な職種の職人がいますが、そんな中でも畳職人は

名称によって立場が明確に分かれていたそうです。

お店を持ち道具をそろえ、材料を仕入れてお客さんの注文に応じる商人的存在の

親方が「畳屋」

お店を持たず独立した職人で、直接注文を受けて出仕事をする「畳刺」

(お店を持たないので、注文先の庭先や家の中で作業をするのが出仕事)

特定の畳屋と出入り関係を結び、下請け専門の仕事をする「手間取」

親方の所に住み込んで雇用関係を結んで作業をする「職人」

忙しい職場を渡り歩く日雇い職人層を「出居衆」(でいしゅ)

畳屋や畳刺に従属する内弟子や徒弟を「弟子」というように、

6種類にも呼び分けられており、これは他の職種の職人には

見られないそうで、この呼び名の中に現代の私たちにはわからない

複雑な人間関係でもあったのでしょうか?

「畳刺」カッコいい呼び方ですね!

最近は見かけませんが、自分が畳屋を始めた20数年前は、

お店を持たずに忙しい畳店を転々とする職人さんを何人か見かけました。

機械化が進み昔の職人さんに比べ圧倒的に手作業が少なくなったこともあり、

自分のことを畳職人だなんていうのはおこがましく思う事もありますが、

心意気だけは忘れずにしたいと思います。